「許す」ということ

七夕の翌日、ブレストセンターに飾られていた笹の葉から短冊をとりはずす作業を終えたニルバとピノコさんは、テレサ先生とともに併設大学の学生さん主催の特別礼拝に出席した。

礼拝はまず、チャペル正面のろうそくに学生さんが火をともす儀式からはじまり、賛美歌を歌って聖書(ローマ人への手紙12章15〜21節)を朗読すると、チャプレンK先生の講話へと移っていった。

「今年6月、米国サウスカロライナ州チャールストンアフリカ系アメリカ人にゆかりの深い教会で、9名が犠牲となる銃乱射事件が起きました。容疑者である白人青年は、一部の報道にあるように教会を〈襲撃〉したのではなく、あろうことか、1時間にわたって聖書講座に出席したあと、同席していた参加者たちに向かって銃を打ち始めたのでした。ところが、全米でさらに反響を呼んだのは、その事件の後、裁判所で行われた審理の際の犠牲者の家族たちの陳述でした。事件からまだ日が浅いにもかかわらず、遺族たちの多くが、『罪を許します』と陳述したのです。そのニュースを聞いてから、私は自分に深く問いかけています。私は許せるだろうか、家族を殺されて、私は『その罪を許す』といえるだろうか、と」……

K先生の説明によると、敬虔なクリスチャンである彼らのいう「許し」、すなわち「神の許し」とは、相手へのやさしさや温情ではなく、復讐する権利を放棄すること、すなわち、罰を与える権限を神にゆだね、憎しみから自分を自由にすること、を意味するのだそうだ。

その説明を聞きながら、ニルバの頭に浮かんだのは、以前、ピノコさんと一緒に観た「アマデウス」という映画だった。映画の中で、モーツアルトを死に追い込んだ(という設定になっている)ライバルのサリエリが頻繁に使っていた”forgive”という言葉と、字幕に出ていた日本語の「許す」という語がどこか完全に一致しないようにも思えたニルバは、その夜、大学の図書館へ行き、語源を調べてみた。

すると、forgive の”for”には「完全に」という意味があるらしいということがわかった。
for-give=「完全に」「与える」=許す 
なんと深い言葉だろう!

つづいて日本語の「許す」の語源をあたってみると、
「緩ます」=相手を縛りつけずに緩ませてあげること、自分自身を縛りつけずに緩めてあげること
とある。

つまり、ニルバが調べたかぎり、両者はやはり同じ意味だったのだ!

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ人への手紙12章15節)
「これが究極のチーム医療だと思う」と、K先生は講話のなかでおっしゃった。

父ガエルを飲みこみ、いまだ行方不明の母や身ごもっていた嫁ガエルにまで危害を与えたかもしれないあの猛り狂うブルトーザーを、ニルバも「許す」といえる日がくるのだろうか。そんな日が、今生ではたして訪れるのだろうか……

いまだ道半ば、さらにこの「神さまのフトコロ」で精進し、テレサ先生らの活動に寄り添いながら本当の「愛」について考え続けてていきたい、と願うニルバであった。