終戦記念日に思うこと

67回目の終戦記念日の朝、ニルバとピノコさんは旧館で待ち合わせ、チャペルに参拝した。創立者のT博士ををはじめ、その歩みを支えてきた先駆者たちに祈りを捧げるためである。

当ブレストセンターの所属する病院は、1902年、米国聖公会の宣教医師T博士によって開設された。その後、1923年の関東大震災により全焼したが、T院長の懸命な募金活動によって再建され、第2次世界大戦下の東京大空襲の折には米軍の空爆をまぬがれたが、それは日本を占領したら陸軍病院にしようという米国側の計画があったからだという。

1941年の日米開戦当時、「大東亜中央病院」と改称されたが、1945年8月15日の2週間後、米国に陸軍病院として接収され、その後1956年までGHQの支配下に置かれた。朝鮮戦争の際には、野戦病院として、アメリカ兵の治療を引き受けていたという経緯もある。

1992年に現在の病院が完成し、1995年には最寄駅付近で地下鉄サリン事件が起こった。T博士の志をうけついだ当時のH院長は、ただちにその日の外来受付をすべて中止させ、被害者を優先的に受け入れた。周囲から批判も出ていた、チャペル内にさえ酸素吸入口を設置するという緊急時の野戦病院化構想が、みごとに役立ったのはこの時である。

20世紀の初め、英国国教会長老派の宣教医師によって開設され同宣教師帰国後荒廃していた「築地病院」を26歳という若さで買いとる決断をし、現在の病院の基礎を築きあげたT博士は、1934(昭和9)年、58歳でこの世を去った。

最期の言葉は、
"Let the work go on."

その志を後世にうけつぐ者すべてが、この8月15日という日にあらためて唱えたい言葉である。