ある医師の原点

九州最南端の県生まれ。洋品店をいとなむ敬虔なクリスチャンの家に育ち、奨学金を得て地元の国立大学医学部を卒業した青年Cは、ある日テレビで見たH先生のドキュメンタリー番組に心うたれ、東京のL病院で働くことを希望した。

九州を出たのは、その採用試験の時がはじめて。そこで内科医となり、外科医の女性と出会って結婚。さらに故郷から遠くはなれた米国で最先端の抗癌剤治療法を学ぶことを切望したC医師が妻子を伴い太平洋を渡ったのは、1994年のことである。

渡米は果たしたものの、米国で外国人が癌専門医になるためにはいくつもの高いハードルがあった。まず、3段階あるアメリカの医師国家試験の2段階までと英語試験に合格してはじめて、研修許可証が与えられる。願書を提出し、書類審査を通過したもののみが面接によばれ、その上で、コンピュータ画面上での成績ランクによる応募者と病院間のマッチングを経て、内科研修先が決まるのである。

深夜早朝にわたる猛勉強の末、C医師は2年後、研修許可証を取得した。しかしその後、研修医の道はすぐには開かれなかった。さらに2年の歳月をかけてようやくはじまったインターン生活も不本意なかたちで終了することが決まり、いよいよあきらめて日本へ帰国しようと思いはじめたころ、修行の大地にふみとどまるきっかけとなったのは、ある男性患者との出会いだった。

ある朝、研修先の病院で、いつものように回診のため病室を訪れると、ふだんは陽気なアフリカ系アメリカ人の男性が大きな肩を揺らして泣いていた。
「どうしたの?」と声をかけると、
「先生。死ぬのが恐いんだ。家族をのこしていくのがつらい」
という。微熱がつづくなか、家族のため毎日明るく働いていた男性は、かなり進行した悪性リンパ腫と告げられたばかりだった。

「僕も一緒だ。仲間に入れてくれ」
ルーニー医師は静かにベッドに腰をおろし、つづけた。
「数日前、研修医としてこの病院に残れないことが決まったんだ。妻子をつれてはるばるここまでやって来たのに、医師としての死を宣告された気分だ」
そして、家族をかかえた働き盛りの男2人はともに泣き、ともに神に祈った。

それは、人種、国境、医師と患者という立場の違い、といったすべての現実を超越した、霊的で、このうえなく清らかな祈りだった。
祈りのあと、クルーニー医師は男性の手をとり、
「自分もこれから行く道がわからない。でも神様がわれわれとともにいて、きっと最善の道を用意してくださる。信じよう」
といって病室をあとにした。

再挑戦を決意したクルーニー医師の前に、その後、ハワイ大学への扉が開かれる。そしてその道は、東京のL病院への「もちいられるための」帰還へとつづいていくのであった。……

妻のテレサ先生が、悩める人々のすこし前に立って彼・彼女らを導き、ときにジャンヌ・ダルクさながら、メスをもち、人々と病魔の間に立ちはだかって闘う医師なら、人々のすこし後ろから、そっと彼・彼女らに寄りそい、肩に手をまわし、ともに歩む医師――それが、われらがオンコロジーセンター長、クルーニー先生である。