よきサマリア人

めずらしく医局がしっとりと落ち着いた年末のある日の午前、ニルバ家の裏にある「すまいる文庫」に探し物に立ち寄ったガチャピン先生に、ピノコ秘書が話しかけた。
「先生、今朝のアメリカABCニュースご覧になりました?」

「いいえ、見てません」――「想定外の」質問に、ガチャピン先生が笑いながらこたえる。わが家の床下にこっそりためこんでいるお菓子の1つに手をのばそうとしたニルバは、あわてて手をとめ、聞き耳をたてた。

「カリフォルニアのレイクタホ(タホ湖)の近くで、まっくらな雪道に結婚指輪をおとしてしまった男の人がいたんですって。必死に探していたら、そこへ『ダグラスさん』って人が通りがかって、一緒にさがしてくれたんですけれど、見つからない。お互い凍えそうなほど寒いので、しばらくして落とした男の人が『もういいです、あきらめましょう。ありがとう』といって、それぞれの家へ帰った。……でも、家でしばらく温まったら、そのダグラスさんって人は『やっぱりもうすこしさがしてみよう』っていう気になって、深夜、また車でその場所へもどってさがしはじめた。そしたら、見つかったんですって! 内側に『リサ、2010年6月5日』って刻まれていたそうなんですけど、落とし主がどこの誰だがわからないので困ってしまい、テレビ局にその指輪を持ち込んだそうなんです」

以前、ガチャピン先生が結婚指輪をなくした顛末をお伝えしたが、その後も、
「僕のカバンが朝から見あたらないんだけれど、見なかった?」
「た、たいへんだ……また指輪がどこかに消えた」
等々、ガチャピン先生に関しては、肝をつぶすような騒動があとをたたない。

ピノコさんの話をはじめはおもしろそうに、しかし進むにつれ真顔になり聞いていたガチャピン先生だったが、話の終わりには安堵の表情をうかべた。ピノコさんの話はつづく――

「それで、テレビ局の人が、『どうして見ず知らずの人にそうまでしてあげたんですか』って尋ねたときの、ダグラスさんのこたえがふるってたんです。『僕は今までいちども結婚ってものをしたことがないから結婚についてはよくわからないけれど、でも、あれを落としたら誰が憤慨するかは想像できます』って」

オチの部分でめずらしく「ハハハ」と声をあげて笑ったガチャピン先生。笑いがおさまるなり、ぽつりとつぶやいた――「でもそんな人のいいダグラスさんは、なんで今まで独身だったんだろう」

(たしかに!)とひそかにあいづちをうちつつ、自身のみじかかった結婚生活の相手をひっそりと思い浮かべ、お菓子をつまみあげながら、同時に遠いカリフォルニアの「ダグラスさん」や「リサ」さんに思いをはせるニルバであった。